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TOPレジュメ集

     第7回  原点の会   レジュメ         鈴木 一夫
「人は何のために生きるのか」
小浜逸郎氏の提示 
最も基本的なテーマであるにもかかわらず、人それぞれに、これまで生きてきた風景またはこれから生きようとする夢や目的が異なるので、普遍的な答は得られない。
そこで、著者は、この問いを次のように分析している。
1.どんな状態にあるときにこういう問いに捉えられるか。
・個体発達的要因
 自我の確立期に、親を初めとする他者と切り離された個体としての「自分」を強く意識する。新しい人間関係を通して自我を再構成、その延長上に抽象化・一般化された問いがある。
・時代的要因
 活気溢れる社会・危険に直面している社会・一定の秩序のなかで安定している社会ではこの問いは切実感を持たない。一種の空虚感がただよう社会の中で、この問いが出てくる。
2.人生には“意味”も“目的”もない。
 本来、“意味”や“目的”は、目の前の課題を遂行していくプロセスである。したがって、人生全体の意味や目的は、その終局が「死」であるから、適用できない。
3.利他的な見地に立った問いは究極の問いにならない。
 人生の意味や目的を「世界平和・人類の繁栄」などと考えると、その先に、その目的や意味は何か?という問いが残る。
4.したがって、この問いは論理的に結論の出ない問いであるので、「人はいかにすれば自分の生を充足させることができるか」という問いに達するが、この問いに応えられる一般的な解はない。
5.「人の生きる意欲を支える一般的な原理はあるのか。あるとすれはそれは何か」という問いの形をとることが適切である。そして、あるとしても、それは複数の原理の絡み合いによっている。

小浜氏の提示は以上のようなものである。
これに捉われず、このテーマを自由な発想で考え直したい。

“人”を“人類一般”と言い換えた場合、原生動物からホモサピエンスまでの「“命あるもの”は何のために生きるのか」という問いになって、“〜のために”と問う意味がないことに気がつく。ヒト以外の生物は、その意味を問うこともなくひたすら“生きる”。
そして、ヒトは、自分の人生に意味も希望も感じられなくなったとき、自分を抹殺したいという欲望に駆られるやっかいな動物でもある。
小浜氏のように、この問いを論理的・哲学的にとらえることも必要だが、個別具体的な場面での迷い、苦悩、希望、疑問を率直に語り合うことも意味があると考えている。

 

 

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